2012年7月26日木曜日

心の時代ではなく、心を鍛える時代。




法相宗大本山
興福寺貫首 多川 俊映 氏は、情報の時代について・・・・・

現代の人は、自分にとって都合の良い情報を入れようと目の色を変えて躍起になり、しかも、心がしっとりと潤うなどを願っているが、そんな都合の良い一石二鳥は、ない。
ないものは、探しても見つからない。
それより、情報という喧騒からきっぱり決別する時間をどう担保するか。
その気概を持たずして、なにが『心の時代』か。と、前々号のお寺の機関紙「興福」で述べていた。

未だ腹の虫がおさまらないのか、最近届いた「興福」156号で多川貫首は以下のように再説している。


それにしても皆、自分の都合に合う情報を求めて必死である。
それに端末の携帯化が拍車をかけて、もはや歩いていても情報の接取に余念がない。
その上さらに、自らも発信するから、忙しいったらない―
これに費やされるエネルギーを算出すれば、おそらく相当なものになるに違いない。
それだけのエネルギーを、何か一つのことに一心不乱に注いだら、どんなテーマでもちょっとした成果が得られると思うけど、そういうことはせず、”情報の浅瀬”をあてもなくさまよっているわけだ。
そうした状況では心は、それはくたびれるであろう。そんなこともあって、「心の時代」というのかもしれない。
しかし、本当に心の潤いを求め、心豊かでありたいのであれば、情報というものを果敢に遮断するしかない。
しかし、―イヤ、そんなことをすれば、たちまちバスに乗り遅れてしまうではないか、というのでは「心の時代」は永遠に来ない。
じっさい、情報の時代はともかく、心のほうは掛け声倒れである。

なにかといえば心、心というのが昨今の流儀だが、「安心安全」と同じで、言ったからといって、豊かな心がうまく手に入るわけでもない。
言霊とはいうけれど、もういい加減に、そんな都合のよい言霊はないとしるべきだ。
「心の時代」とか、「心豊かに」などというコトバは響きが柔らかいから、つい甘美な気分になるが、心の豊かさを求めるというのは、じっさいは一種の闘争である。
そこでまず、そうしたコトバがかもし出す甘い気分なぞ捨ててかかるのが、豊かな言葉を求める事始めであろう。
それというのも、いうところの豊かな心の世界とは、好都合ばかりではないからだ。その時々の好都合だけに関心を持つのではなく、不都合なものをも大きく受け止める―。
実に、そこにこそ、豊かな心の世界が展開するのではないか。

好都合はウエルカム。不都合は排除。というのは、なるほど気分は上々かもしれない。しかし、世の中、好都合なものが身の回りにごろごろあるわけでもないから、そうした日常は、自ら世界を狭くしていくだろう。そんな狭小の世界がどうして心豊かなものか。
一見不都合なもの、あるいは、異質なものも毛嫌いせず、よくよく目を凝らせば、いままでとはまた異なったイメージが得られるのではないか。その作業を言い換えれば、わが心を鍛えるということなのだが、まさにそのことが潤いある日常、豊かな日常そのものにつながっているのだ。

法相宗(ほっそうしゅう)とは。
多川 俊映(夛川、たがわ しゅんえい )



世間に媚びない大人はカッコイイもんだ。








今日の空(朝ブログ)
花珠パールネックレスー岩城真珠
花珠真珠;本日の逸品公開中




0 件のコメント: